1983年2月11日金曜日

1983年2月11日(晴)

9:00ころ起床。いつもの通りに子供達はすでに起きている。朝食は、パン、おむすび、ハムとキャベツの炒め物。ゆっくり食べると美味しい。

長女はピアノのグレードテストの練習のため、10:20ころに出かけた。次女とボールを持って小学校の校庭で遊んだ。11:30ころに帰宅したが、次女は外で友達と遊んでいた。昼食はおもちを食べる。

長女はピアノ教室の後、アイスなどを食べて13:00ころに帰ってきた。子供達は外へ遊びに出た。

和室で本を読もうとしたが、陽が差して暖かく昼寝をすることにした。15:00ころ、長女の声に起こされる。起きたとたん体がだるい。

長女はマンション玄関で遊んでいて、あごの下を1cmくらい口を開けたケガを負っていた。口が開いているので、妻が外科へ連れて行った。特に縫うこともなく大丈夫のよう。3000円とられたとのこと。

今日は祭日なので明日精算するとのことであるが、ちょっと高い感じがする。

夕方から「金環蝕」(石川達三)の続きを読んだ。

新しい通産大臣大川は新しい首相寺田派の人間である。このたびの総裁選挙には15~20億円の金が使用されたという。寺田の対抗者酒井も同様に金を使用した。この金は民政党の国会議員を買収するのに使用、このおかげで寺田は首相となり権力と名誉を得る。

この大金を何で補うかが問題。寺田首相、および内閣官房長官星野は一時民政党費をごまかし使用するが、いずれ何としてもその金の工面が必要であった。

とりあえず5億円という金が必要となり、その一部を石原参吉に頼むため、部下西尾に打診させる。石原は何かあると思い断るが、西尾の名刺と用件をひかえて保管した。

電力建設は九州Fー川ダムの建設プロジェクトを持っており、この仕事をめぐってすでに青山組、竹田建設の暗躍が行われていた。電力建設の現総裁財部は、今までも青山組に恩義を感じており、青山組に何とか今回の仕事をやらせたいと考えていた。

一方、副総裁の若松は竹田建設と関係が深く、竹田と考えていた。

星野は資金に、政治献金させることを考え、竹田建設の朝倉専務と会い、政治献金を依頼する。朝倉は、今度の九州F-川ダムをやらせてくれるならその一部で5億円の献金を考えるとの提案を副総裁にもちかけ、副総裁にこの方向で行えるよう星野、通産大臣大川に話をもちかけることを依頼した。

これにより、竹田建設、若松副総裁、星野官房長官、通産大臣大川、それに寺田首相は、竹田に入札させるため行動を起こす。

竹田入札に最も障害になるのが財部総裁であった。財部はこの動きを知り、任期の9月末での間に何とか入札まで行い、青山組に入札させて、自分は退職しようとする。青山組は、もしうまく入札させてもらえば財部の行き先は保障すると伝え、財部に期待する。

まもなく、通産大臣大川から竹田に入札させるよう話があり、また寺田首相の夫人からも依頼があった。

財部は、竹田に入札させることは絶対やりたくなかったが、大川など云う通り従えばもう4年間留任となり安泰ということを考えると、迷いが出てきた。しかし何とか青山組ということで任期中に入札しようと入札を急ぐことにした。

大川はこの急ぐ話を耳にして、朝倉と話し何とか財部をやめさせることを考える。手段としては金であった。朝倉は財部を金で縛ることを考え、5000万円渡すから退いて欲しいと云う。大川からも退職金ははずむということで退職をせまる。

この時の朝倉からの

「大好きなものにまかれるにも、うまくまかれのと、わるくまかれるのでは大きな違い。うまくまかれておく方がいいですよ」

ということばに迷う。

どうせまかれるならうまくまかれた方が良い。財部は何とか独りでもまかれないようにしようと気もある。気持ちがギクシャクしている時、ふと古垣に会うことを考え「辞職をせまられている」、「寺内夫人までが名刺で竹内をよろしくと云っている」など、自分の立場を話してしまう。

結局、うまくまかれる方を選択し、任期を1か月残して辞職する。理由は一身上の都合となっており、退職金は2500万円と大きな額であった。一方、竹田の方から7000万円の金を受け取った。

これにより、この汚職事件の一つの障害が取り除かれ、その障害者も実は汚職にまき込まれた。

さてこれで、後任総裁に松尾芳之助という寺田派の人間を任命し、次は入札をいかに竹田に入れるかであった。

その方法は、結局こうだった。

見せかけで、工事費の算出は極秘にしたというように見せるために、2週間山の温泉に作業者をカンヅメにする。ローアリミットの算出は、理事会でのくじ引きで決める方法であった。しかし、この工事費の数値も竹田に流れており、またローア―リミットもあらかじめ7%と決めておいて、くじの不正により決められた。

入札はローア―リミット以下は失格という方法で、実は算出額自体も5億円の献金を含めるために多い目に見てあった。

深川組  39億6千万円
青山組  40億8千万円
大岡建設 39億9千万円
竹田建設 45億2千万円
高田建設 39億5千万円

さて、工事予定額は、48億1千万円。ローア―リミット7%として、最低価格は44億7千万円となり、竹田以外は下限を割って失格、竹田に決まった。竹田はさっそく、5億円の献金を星野に実践する。

神谷代議士は民政党員であるがどの派閥にも属さなく、今回の総裁選の資金に民政党費が使用されたり、F-川ダムの入札に関する不正など、情報を古垣および石原から入手していた。今回の不正を予算委員会で追及すべく準備を整えていた。

一方、西尾秘書官の所へ寺田首相の夫人が会いに来て、「竹田をたのむ」といったことをもらしたのはおまえと云い、それなりに責任を取れと云う。西尾はノイローゼとなる。

西尾はただ、星野から指示され名刺を持っていただけで、この背後に大汚職事件が絡んでいたことを知らなかった。西尾は飛び降り、過失死する。

これはどうみても自殺であったが、自殺とすると何故ということになり汚職の話が公にされる可能性があり、警察庁に圧力がかかったものと思われる。

予算委員会で、神谷は松尾、若松、財部などに質問するが、肝心の所では記憶にないと逃げる。財部についても、辞職に圧力があったかという質問に全然なく、あくまで健康上と答えた。古垣に話した話した内容についてもその憶えはないとした。

次の古垣に対する質問が行われる当日になって、古垣は殺された。公には甥の折二郎が三角関係により殺したとされたが、実際には寺田首相一派の仕業とされた。

まもなく寺田はたおれて、首相は酒井にかわる。故に、通産大臣、官房長官もかわり、当時の汚職のメンバーはいなくなる。

星野は神谷に、予算委員会での追及をやめさせようとするが、国税を無駄に使用している不正を正すのが正義として受け付けない。しかし、幹事長が金で片づける方法ではなく、海外視察に行くよう指示し、2000万円を渡し、追及を止めることになった。

結局神谷も同じ民政党の人間で、国民のために事実を明かすことを真意とせず、売名行為でしかなかった。またこの汚職事件の各種情報をとっている石原は、詐欺などの名目で逮捕され、資料は押収される。しかし、重要な資料は別のアパートに隠してあったが。

この逮捕も首相からの圧力によるもの。これにより、今回の汚職の重要な情報を持ったものが抹殺され、何もなかったように政治は動いていった。

まもなくダムが完成すれば、当時の大川大臣、若松、松尾、竹田は、その功績者として勲章までもらうことになる。汚い事実は全く知らされずに。

「(この大汚職事件を)一般庶民は何も知らなかった。彼らは営々として働き、その収入から高額の租税を納めていた。文字通り血税と云われるような税金であった。それが政治の上層部では、個人的な権勢慾や野心、名誉慾のために濫費されたのだった。しかし、彼らは庶民の上に立ち、権力をふるい、そして赫々たる栄誉をあたえられているのだった。」

この小説の最後の言葉は、今の我々の世の中にもいえることで、怒りを禁じえない。しかし、我々は何も手段を持っていないが、残された手段は選挙である。

少なくとも今の保守政権はこの小説ズバリのことを今も続けている。田中角栄の事件も全くこの小説と同じものである。腐敗保守政党には絶対投票すべきではない。

今のこのような不正を暴くには、同じ政党内の人々からは不可能で、また現在の検察庁も上からの指示によって捜査を中止するなど、不可能なようである。

残る手は選挙により政権から落とすしかない。しかし選挙も金で買収など不正が行われており不可。そうすると、残る手段は保守政党内にだれかスパイで入って、そのスパイが首相として不正をなおすしかないのか。

この小説での場面について。

①大臣が財部に辞職をせまる時、まずは世間話をして、核心にせまる。こういう時には、何かあると考えなければ。

②財部が辞職することを決断。私ならどうするか。もし竹田にやらすとすれば、完全に汚職に巻き込まれる。しかし、辞職をとったにもかかわらず汚職に巻き込まれ、予算委員会では「うそ」の発言をせざるを得なくなる。どちらにしても財部はこの汚職に巻き込まれる運命にあった。

この運命を変えるには、金ももらわずに辞職することしかなかった。私はこのような立場になることもないと思うが、金も拒否、辞職をとることになると思う。庶民が庶民として生きていくにはその決断が必要である。

法治国家日本の法律は、庶民に対しては厳格に適応される。しかし、保守政治家、官僚に対しては全くの治外法権となっている。これが民主国家といわれる日本の実態である。この実態を国民は知らないし、感じていてもどうしようもない。

先日、中川一郎氏が自殺した。これも疑問だ。中川と中曽根は総裁選でおそらく多額の金を使いはたしている。その金はどこかの献金で処理されているはず。特に中曽根は政権をとったことにより、かなり悪い手を使い帳尻を合わせる。

その一つとしては、防衛費を大にして、その中から「金環蝕」のような形で献金された可能性もある。大切な税金が、政権党の私欲の経費に使われる。

この中曽根の弱みを中川が知っていた可能性が強い。自殺としているが、実際は何らかの形で中曽根が殺したと考えてよい。

この小説を読んで、今の保守政権の出来事がすべてうまく説明できることから、事実と考えてよいようだ。

昼寝が悪かったのか、7.5℃の熱があった。本を読み終わり薬を飲んで1時ころ寝た。

1983年2月10日木曜日

1983年2月10日(晴)

昨夜遅かったせいか、眠い。7:40ころ起きて会社に向かう。11:30ころから平塚に向かう。

平塚から戻るともう午後6:25であった。会社で書類などまとめ、明日からは三連休なので、たまっている仕事を家ですることにした。

午後7:30ころに帰宅。今日は小学校の創立記念日で、長女は休み。次女は幼稚園に行って、小学校の校庭で遊ばせてもらったという。

夕食後子供たちと話した後、NHKニュースセンター、かぐわしき日々の歌を見た後、ルポルタージュ「熱演さあてお立合い」を見た。

浅草に住む坂野比呂志さんの話で、大道芸で芸術祭大賞を受けた。バナナのたたき売り、金魚売りなどの芸で、このような人も今後いなくなるのでは。しかし弟子がいるという。荒川さんというが、先日京成上野駅で見かけている。ボケたような感じのする人で、この芸を伝えられるのか。

坂野さんは71歳という。元気だ。これも仕事があるからだと思う。この番組のレポーターは羽仁未央で、左幸子の目もとによく似ていた。

12:30ころ寝た。

1983年2月9日水曜日

1983年2月9日(晴)

京都にて。6時、母に起こされる。6:44の始発バスにて中書島へ行き、7時過ぎの京阪電車急行に乗る。電車の中で「金環蝕」の続きを読む。

8時に大阪本社に着き、月度報告書を作成した。

課内会議。大阪ではSRⅡの供給遅れと少ないことにより、TPCにやられたという。完敗ということで、これから責任問題が起こる可能性あり。少なくともシハギだけの責任ではないことを十分資料準備しておくべきと主張。課員それぞれ資料を準備することにした。

午後5:46新大阪発のひかりにて東京に帰る。9:40帰宅。

かおりちゃんのママが来ており、シュークリームを焼いていた。失敗の皮を食べたりしたが、まもなくママは帰った。ママは細身でスマートだが、近くで見ると結構お尻は大きい。

今日、長女の誕生会をして、友達が10名遊びに来たとのこと。長女はプレゼントをもらって嬉しそうだったとのこと。

風呂に入った後、12:30頃に寝た。

1983年2月8日火曜日

1983年2月8日(晴)

大阪出張。会議を終わって、京都の父の家に向かう。午後8:30ころ、バス停から家に向かう途中、建設会社の前を通り過ぎたところで何やら叫ぶ声。前にいる男の人を呼んでいるのだろうと気にせず歩いていると、さらに名前を呼んでいる。後ろを振り向くと母であった。

急いでうしろに戻って話を聞いた。「おばあさんが悪いそうで、今から病院へ急ぐところ」とのこと。家の鍵を受け取った。

両親は愛車「アウディ」で病院へ向かった。午後10:30ころ両親は帰ってきた。おばあさんはまだ当分はもつらしいが、これからは人をつけておかないとということで、今夜は稲おばさんと、スズおばさんが付きそうとのこと。

明日以後は付き添いの人を頼む予定とのこと。伊勢の家を売る契約をしたとの話を聞く。

1983年2月7日月曜日

1983年2月7日(曇のち晴)

7:45起床。まだ眠たい。長女は元気なので学校へ行くことになる。

11:40浅草発、足利行急行でORGへ行った。会社へ帰ったのは18:20ごろであった。

帰宅後、マイコンの続きをする。昨日の素因数分解の数字を一度に出すプログラムを考えたが、どうもこのマイコンでは出来そうではない。諦めて、次のユークリッド互除法のプログラムを記憶させた。この互除法、高校の時習ったが忘れてしまったのでいろいろ本を調べたがなく、また外でもう一度本を探すことにした。

今日は帰りの電車(千代田線)で金環蝕(石川達三)を読んだ。今日の所は、官房長官の星野はなにやら金策に部下の西尾に頼む。その相手は石原参吉という金融ブローカー。

石原は赤坂に女を金で雇っていろいろ情報をとっている。今日も電力建設財部総裁と青山組との密会などを知る。石原には政治新聞をやっている古垣常太郎からも情報をとっている。

電力建設の副総裁若松は竹田建設の朝倉専務と意が通じているよう。新しい通産大臣に大川が決まり、電力建設総裁のポストが微妙になりつつあった。今日は何やら、若松と朝倉が赤坂で会っている。

ここで駅を降りた。夜、11:40就寝。

1983年2月6日日曜日

1983年2月6日(晴)

9時ごろ子供たちに起こされる。まだ寝たいがパンを一緒に食べるために起きた。長女が再び7.5℃の熱。それで、午前中寝かした。

きのうの続きのマイコンをやりだす。プログラムミスとわかり、テープへの記録ができるようになる。プログラムライブラリーの素因数分解をプログラムし、テープに入れる。

午後天気が良いので次女と公園、小学校の校庭で遊んだ。久しぶりにバスケットをやってみた。なかなか入らなかった。次女は元気で、鉄棒の前回りが好きだ。

午後3時から4時まで、暖かいので和室で昼寝。キング薬局から「くろず」入荷とのTELあり、買いに行った。2400円/本とあいかわらずの価格。

夕食後、再びマイコンでカシオプログラムと異なった独自のプログラムを考えた。11時ごろ完成。11:30ごろ就寝。

1983年2月5日土曜日

1983年2月5日(晴)

朝、8時ごろ目が覚める。長女はもうすっかり元気だが、お医者へ行くため休むことにする。

パンを食べて、もうひと眠りすることにした。

妻は松坂屋のバーゲンに出かけるとのことで、10時ごろ家を出た。かおりちゃんのママと一緒に出掛けた。

10時に起床。レコードを聴いた。ビバルディの四季を久しぶりに聴いた。10時30分ごろ長女が武田医院から帰ってきた。

すぐに図書館へ行く。金環蝕(石川達三)を再度借りた。他に、遥かなりわが叫び(笹沢佐保)、骨肉の森(笹沢佐保)、大江戸火事秘録(笹沢佐保)も借りた。

11:20ごろ幼稚園へ次女を迎えに行った。昼食は子供二人とおもちを焼いて食べた。

長女は熱も下がっているので、ピアノレッスンに行った。その間、石油ストーブはほとんどいらないので石油を抜き片づけた。

長女が14:30ごろ帰宅。15時ごろから次女を連れて図書館に再び行く。次女は図書館横の公園で遊んだ後、本を借りた。長女の分も借りて帰宅。

妻はすでに帰って来ていた。スカート、ブラウス、スラックスなど買ってきていた。

夜、久しぶりにマイコンをしてみた。これからカシオのライブラリーを一つずつテープに入れる作業をすることにした。しかし、テープへうまく入らない。今日はあきらめ、11:30からテレビを見て、夜1時ごろに寝た。

1983年2月4日金曜日

1983年2月4日(晴)

7:50起床。長女の熱は下がったようだが元気なく、朝食後また寝た。今日は学校を休む。

会社では、今日は一日デスクワーク。

19:20ごろ帰宅。先日見に行ったウィーンモーツアルト合唱団が出ていたNHK番組を見る。長女は完全にカゼで鼻がズルズル。もう熱はなさそう。

10:00~11:00、必殺仕事人を見る。いつも思うことだが、この物語のように、世の中の悪い者が必ず成敗されればよいが。

今日の藤田まことのことば、
「こう世の中が悪いと、助けることまでは手が回らなく、せいぜい恨みを晴らすことしかできない」
という。今の世の中を表しているよう。

11:30ごろ就寝。

1983年2月3日木曜日

1983年2月3日(曇り)

7:40起床。11:00ごろからYRC平塚へ行く。帰りに藤沢で下りて、BSKさんの自宅へ昇格祝いを手渡した。

鵠沼松ケ岡あたりは豪邸が多く、Kさんの家も結構大きかった。

18:30ごろ帰宅。長女がカゼで寝ていた。めずらしく7.8℃の熱があり、早く寝させた。

11:30ごろ寝た。

1983年2月2日水曜日

1983年2月2日(雨)

朝、母に起こされる。6:45。まだ雨が降っている。バスにて京都駅に向い、彦根へ行った。

磯川さんと一緒にBS彦根訪問後、米原までタクシーで行ったが5分違いで乗れず。次の新幹線で名古屋へ。

名古屋から伊勢へ行き、YRC三重訪問。帰り近鉄特急にもまたも1分遅れで乗れず。50分後、名古屋に向かう。

名古屋でも僅かの遅れでひかりに乗れず20分待つ。今日は運の悪い日である。36歳の誕生日であるのに。

帰りのひかりで笹沢版「真田十勇士」地の巻を読み終わった。笹沢志保特有の事実の見方で歴史の一つの解釈と感じ取れた。

特に面白いのは明智光秀が山崎の合戦に敗れて敗走するとき、久我(我が父の家のあるところ)を通り小栗栖にて住民に殺されたとされている歴史を根本的に間違いとして、実は殺されたのは進士作左衛門で、本人は生き延びたとの話。

明智光秀が逃げた時に同行したのは、溝尾勝兵衛尉、進士作左衛門(身替影武者として死亡)、堀毛与次郎、村越三十郎、三宅孫十郎、伊勢助四郎の6名で、進士は死亡、溝尾、堀毛、村越、三宅は坂本へ向かいそこで死亡。

明智と伊勢は逃げ延びて、濃尾平野の洞戸村にて生活する。伊勢は結婚し源三郎をもうけ、明智は「いく」という女に徳姫を産ませた。

この伊勢助四郎、源三郎、徳姫が「人身御供」といって、村の娘を売って金を稼ぎ、家康を殺す計画を進めていた。

光秀は比叡山の僧になったが、すでに世は家康のもので、天下を動かすには家康をあやつる必要あり、何としても家康に会いたいと。もし家康が光秀に会えば逆賊として死刑となる可能性大のため、徳姫たちは会う前に家康を殺すことにした。

真田幸村の家来の猿飛佐助と霧隠歳三は、この3名と共に同一目的の家康暗殺に向かう。伊勢源三郎から穴山大助と名前を変え、もともとの同士、由利鎌之助と合わせて、真田十勇士の4名がそろう。

家康が京都から駿府へ戻る時をねらったが、途中亀山で火事に会う。その時の放火したのが「小幡勘兵衛景憲」で、元徳川家康に仕えていた軍法家。家康と意見が合わず家康を離れ、一般には追い出されたとされる。

これが今度は大坂の豊臣秀頼に仕えることになる。しかし、実は家康のスパイで、大坂の冬の陣で豊臣が敗けるのはこのスパイも大きな原因。この放火も家康が知ってのことであった。

一方関ケ原の戦いで小早川秀秋は石田三成側であったが、この者の裏切りにより西軍は完敗する。

これには原因がある。秀吉には当初子供がなく養子として秀次と秀俊をとったが、まもなく淀君が秀頼を生みこの2名は不必要になる。

秀次には野心を持っているとして自殺させ、秀俊は毛利家の分家小早川の養子となり、小早川秀秋となった。その後、秀秋の小物ぶり、幼児性に秀吉は激怒し所領を召し上げようとする。

この時口に入ったのが石田である。石田が領地を召し上げるよう動いていると勘違いした家康は、召し上げを止めるように秀吉に頼んだ。その結果とられずに済んだ。

このことから家康をよく思い、石田を憎むようになった。関ケ原の戦い前にはすでに、家康からは秀秋に借りをかえすよう連絡が入っていたという。

さて家康の行列は宇津山にて猿飛らに暗殺されるところだったが、同じ家康に恨みを持つ秀吉側の三好青海入道、伊三入道の兄弟が誤って家康の影武者を殺し、猿飛らの計画は無になる。

歴史には裏の裏があることと、世の中で勝つためにはスパイのスパイのようなやり方が必要なことを悟らされる話であった。

1983年2月1日火曜日

1983年2月1日(晴、夕方大阪雨)

朝、7時30分起床。8時15分に家を出て、東京発9:00のひかりにて大阪へ。

午後1時からの大阪会議に出席した。

夜9:00ころ、京都実家に着く。伊勢の家を処分するにも管理を頼んでいた人(うかいさん)が出てくれないと出来ないとのことで、法律上どうなのか父は調査中とのこと。

何か情報があれば欲しいとのこと。 10:00ころ寝る。京都泊。

1983年1月30日日曜日

1983年1月30日(晴、夜雨)

9時起床。子供達はすでに起きて食事を済ませていた。

朝食後家の掃除を手伝った。妻はサンハライを使用しない。和室は徹底的にサンハライをかけ、タンスの上、蛍光灯の上などホコリをとった。

午後から、笹沢版「真田十勇士」を読む。明智光秀が山崎合戦の後も30~40年生きていたとする説での話でおもしろそうである。

4時ころから駅の方へ買い物に出かけた。私はポケット辞典、次女は5才用国語テストを買った。長女は結局何も買わず。

夜、風呂に入った後、再び「真田十勇士」を読み、途中11時ころに寝た。

1983年1月29日土曜日

1983年1月29日(晴)

  9時起床。シュガレディーのTELに起こされた。妻は次女を幼稚園へ送って行っている。今日も幼稚園はカゼのため休園となって帰ってきた。次女は元気だが気をつけてやらなければ。せいぜいうがいを励行させる。

  昼食後「自らの定年」(高杉良)を読み終わる。

  主人公新井は人間的に見ても共感を覚える人物であった。会社には出世欲のみで、他の人間のことを考えず、さらには自己の出世のため他人をいかに蹴落とすかを考えている人もいる。

  確かに、攻撃は最大の防衛で、いかに他人の立場を悪くすることだけを考えているものも我々の身辺にいるような感じ。我々の身辺のそのような人について、誤解していること望むが。

  新井と対照して出てくる本明も出世欲のみの人間であった。一流大学を二人とも出たが、新井は一流商社光陵商事入社、本明は当時電気部品の町工場サンライト工業に入社した。

  新井は出世街道を進んでいたが、新井の提案から新しい合成樹脂の加工工場として浅岡化工に資本参加することになった。

  新井と浅岡社長とは親しい関係で、あくまで新井は浅岡化工のためを思って光陵商事に紹介したが、新合成樹脂プロジェクトチームは、浅岡化工に膨大な投資をやらせ、資本参加した。

  このため浅岡化工は赤字になり、社長は会長に押し出されるという事態に進んだ。これにより浅岡化工は一時的に社員の首切りを行い、この組合員たちおよび浅岡社長のうらみはすべて新井に向けられた。

  新井は妻と両親の反対を押し切って結婚している。反対のわけは、妻真理子が美人で頭もよいが母親一人ということと、高卒であることからのため。新井の両親、兄弟はすべて一流大学卒、そして外交官など社会的に上層のひとであることから、結婚反対となった。

  この点からも妻は気苦労が多かったが、この浅岡化工組合員からのいやがらせのためノイローゼになり、腎臓を悪くした。

  このことが新井に一つの人生観を与えた。今後絶対に人の首切りなどするのはしたくないということ。

  まもなく新井はロンドンに勤務することになったが、妻を連れていくことは病気の件で反対したが、本人の強い希望で連れて行った。しかし、いろいろパーティーなどの仕事が多く、結局日本に帰らせ入院となった。

  このことから、さらに今後は絶対に海外勤務は止めて、妻と一緒にいてやろうとする。仕事を考えるならある程度妻に無理を言うところだが、新井は結婚したいきさつもあり、妻を第一と考え商社を辞めることにした。

  各社からの誘いがあったが、本明の勤めていたサンライト工業の社長の目にとまり、入社する。新井は存分に力を出したが、社長の池上の妻恵美子にも気に入られ、恵美子のもっている会社の再建にと指名される。

  恵美子は女帝といわれ、今では一部上場の大会社になったサンライトの人事まで手を出すという。よくテレビに出て「社長のことをおとうちゃま」という。

  何だか帝人の大屋元社長と政子夫人と同じ話である。

  新井は恵美子の指示ということで子会社への出向を断じてことわった。この理由は恵美子という女帝に対する反感もあったが、それよりも子会社再建のためには合理化が必要であり、また首切りによる妻の苦労が考えられたからである。

  社長からは、子会社出向がいやならブラジルへの出向との話が持ち出された。社長にとっては新井は次期重役と考えており、何とかやめさせたくなかった。

  一方本明も次期重役になることははっきりしていたが、本明は入社当時から社長をと狙っており、それには女帝に気に入られる必要があるとし、新井の評判を悪くするようたくらみを企てた。

  本明の考えた通り、新井は子会社出向もブラジル行きも断るが、これは本明の企てによるものではなく新井の人生観、すなわち「首切りをするような仕事はしない」、「妻を一人にして海外へは行きたくない」の2点からの判断で、新井にとっては会社での出世よりも、人生観での信念を貫き通すことになる。

  この信念は誰にも言わずに、サンライトも退職することになった。今後は英語力を生かして、英塾でもやるという。

  自分の信念に従い、人間性を失わず会社で出世するのは、困難なようで、私自身新井の生き方には共感を覚えるし、帝人社内でも新井のような人物が出世することを望む。今の上層部がどんな人間であるか、よく分からないが。

  今我が身を見て、新井に似た先輩は山本さんではないか。足立さんは何だかよくわからん。

  しかし、、今会社を辞めて自分で食っていくのは大変と思う。ということは、やはり自分の信念と会社の利益との接点で今後も進まざるを得ないのか。

  読書しながら、ピアノ名曲集のレコードを聴いた。ラフマニノフピアノ協奏曲、チャイコフスキーピアノ協奏曲、ソナタ集(悲愴、月光 etc)。

  この間、子供たちはかおりちゃんと遊んでいた。夕食もかおりちゃんと一緒に食べる。8時ころ風呂。長女、次女とも頭を洗ってやる。きれいになったが大変。短くすれば楽になると思いながらも、娘とのスキンシップによい機会。

  10~11時まで1時間テレビ(ウィークエンダー)を見て、11時過ぎに寝る。

1983年1月23日日曜日

1983年1月23日(晴)

小説「安宅産業」(阿部牧郎)を読んだ。大企業だから大丈夫と思うのは間違っている。

安宅の場合、安宅ファミリーと呼ばれる一握の人々のみが実権を持っていて、それに反対する人の意見を聞かないのみならず、左遷させ自由な意見の交流が出来なくなっていた。

このため、一部上層の独断によりUSA安宅の焦げ付きを発生させ、取り返しのつかないようになった。

伊藤忠から乗り込んだ社長は極力、中間管理職以外の下の自由な意見を聞こうと努力したようだが、それももはや効果なく、安宅は一部(1/3の人員)を伊藤忠に合併し、その他は切りすてられた。

人員整理については、それぞれの運、不運、たとえばたまたま鉄鋼部門にいれば伊藤忠に移籍したが、繊維におれば首切りというような具合。

またこの場合、それぞれの能力というものは無視されるようで、良くもなく、否もないような者が伊藤忠へ行ったようだ。

伊藤忠へ移籍してももはや出世の望みはないと思われ、能力のあるものはむしろやめて行った。

希望退縮という首切りが完了するまでの各人の挙動、気持ちは、私にとっても将来あるかもしれないという観点から、切ないものであった。

会社が用意した再就職先も、これらはほとんど住友銀行の取引先で、無理やり押し付けられたものということで、たとえそこへ再就職しても将来どうなるか。

主人公三宅は非鉄鋼部門にいた仕事のできるタイプ。日常の業務以外にマレーシアの資源開発プロジェクトの中心人物であった。

このプロジェクトは、他の大商社から引き受けの話があったが、その背後に旧安宅ファミリーの重役が、その仕事を引き継ぎ安宅一族を残そうと考えていた。

これに参加しなかと三宅には声がかかっていたが、当時の上司に譲った。しかし、旧安宅がそのプロジェクトをとるとのことが判明すると、住友銀行はその商社に渡すことは止めて、別の小さな鉱山会社に渡すことにした。

このため上司の課長は退職後行くところがなくなったが、別の話から再就職したとのこと。

最終的には三宅は、このプロジェクトについて鉱山会社に行くか、女房の親戚からの話の民芸品店の大阪支店長になるか選択を迫られ、伊藤忠への移籍は完全になくなる。

これも、三宅自身の運不運で、たまたまこのプロジェクトを仕事にしていたためと考えられる。結局民芸品店に決心するわけであるが、人間の運・不運というのを、自分で何とかできないものか。

しかし、三宅にとってはこの民芸品店長が結局最善で、一時は不運であったが、最終的には運が良かったのかもしれない。

1983年1月22日土曜日

1983年1月22日(晴)

  朝から自動車運転免許の更新手続きのため鮫洲へ行く。住民票(一部200円)をとっていたが、不要だった。写真を鮫洲駅前でとって(2枚400円)、タイプを依頼(850円)、郵送(750円)を頼んだ。

  更新手続きは2000円で結構高い。午後1時ころに帰宅。午後は長女を迎えに駅へ行く。

  夕方図書館にて、小説安宅産業(阿部牧郎)、金環蝕(石川達三)、自らの定年(高杉良)、笹沢版真田十勇士(地の巻き、笹沢佐保) の4冊を借りた。

  午後5時には千代田区公会堂に出かけた。ウィーンモーツアルト合唱団の美しい合唱を聴いたが、長女は興味をもって聴いていた。

  しかし、次女は眠たそうであった。