1983年2月2日水曜日

1983年2月2日(雨)

朝、母に起こされる。6:45。まだ雨が降っている。バスにて京都駅に向い、彦根へ行った。

磯川さんと一緒にBS彦根訪問後、米原までタクシーで行ったが5分違いで乗れず。次の新幹線で名古屋へ。

名古屋から伊勢へ行き、YRC三重訪問。帰り近鉄特急にもまたも1分遅れで乗れず。50分後、名古屋に向かう。

名古屋でも僅かの遅れでひかりに乗れず20分待つ。今日は運の悪い日である。36歳の誕生日であるのに。

帰りのひかりで笹沢版「真田十勇士」地の巻を読み終わった。笹沢志保特有の事実の見方で歴史の一つの解釈と感じ取れた。

特に面白いのは明智光秀が山崎の合戦に敗れて敗走するとき、久我(我が父の家のあるところ)を通り小栗栖にて住民に殺されたとされている歴史を根本的に間違いとして、実は殺されたのは進士作左衛門で、本人は生き延びたとの話。

明智光秀が逃げた時に同行したのは、溝尾勝兵衛尉、進士作左衛門(身替影武者として死亡)、堀毛与次郎、村越三十郎、三宅孫十郎、伊勢助四郎の6名で、進士は死亡、溝尾、堀毛、村越、三宅は坂本へ向かいそこで死亡。

明智と伊勢は逃げ延びて、濃尾平野の洞戸村にて生活する。伊勢は結婚し源三郎をもうけ、明智は「いく」という女に徳姫を産ませた。

この伊勢助四郎、源三郎、徳姫が「人身御供」といって、村の娘を売って金を稼ぎ、家康を殺す計画を進めていた。

光秀は比叡山の僧になったが、すでに世は家康のもので、天下を動かすには家康をあやつる必要あり、何としても家康に会いたいと。もし家康が光秀に会えば逆賊として死刑となる可能性大のため、徳姫たちは会う前に家康を殺すことにした。

真田幸村の家来の猿飛佐助と霧隠歳三は、この3名と共に同一目的の家康暗殺に向かう。伊勢源三郎から穴山大助と名前を変え、もともとの同士、由利鎌之助と合わせて、真田十勇士の4名がそろう。

家康が京都から駿府へ戻る時をねらったが、途中亀山で火事に会う。その時の放火したのが「小幡勘兵衛景憲」で、元徳川家康に仕えていた軍法家。家康と意見が合わず家康を離れ、一般には追い出されたとされる。

これが今度は大坂の豊臣秀頼に仕えることになる。しかし、実は家康のスパイで、大坂の冬の陣で豊臣が敗けるのはこのスパイも大きな原因。この放火も家康が知ってのことであった。

一方関ケ原の戦いで小早川秀秋は石田三成側であったが、この者の裏切りにより西軍は完敗する。

これには原因がある。秀吉には当初子供がなく養子として秀次と秀俊をとったが、まもなく淀君が秀頼を生みこの2名は不必要になる。

秀次には野心を持っているとして自殺させ、秀俊は毛利家の分家小早川の養子となり、小早川秀秋となった。その後、秀秋の小物ぶり、幼児性に秀吉は激怒し所領を召し上げようとする。

この時口に入ったのが石田である。石田が領地を召し上げるよう動いていると勘違いした家康は、召し上げを止めるように秀吉に頼んだ。その結果とられずに済んだ。

このことから家康をよく思い、石田を憎むようになった。関ケ原の戦い前にはすでに、家康からは秀秋に借りをかえすよう連絡が入っていたという。

さて家康の行列は宇津山にて猿飛らに暗殺されるところだったが、同じ家康に恨みを持つ秀吉側の三好青海入道、伊三入道の兄弟が誤って家康の影武者を殺し、猿飛らの計画は無になる。

歴史には裏の裏があることと、世の中で勝つためにはスパイのスパイのようなやり方が必要なことを悟らされる話であった。

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